音故知新 on-ko-chi-shin

TAKAHIRO KONASHI official blog

私と神社

このブログのタイトル「音故知新」の「故」はなぜ神社なのか、不思議に感じた方もいらっしゃると思います。勤務校の同僚には話していることなのですが、実は私は神職、つまり神社の神主の資格を持ち、神社に務めていることになっているのです。

務めているとはいっても、もちろんそれが本業なわけではありません。八百万(やおよろず)の神社の中でも、その神社だけを仕事として生活できるのはそう多くはないのが現実です。お寺とは違い、村にある普通の神社の仕事だけでは、とても家族を養うことはできないのです。
私が奉職しているのは、宮城県角田市に鎮座する「住吉神社」です。1300年代の室町時代に創建され、私の先祖が代々「社家」(神社を継ぐ家系の家)として、神社を守ってきました。10年ほど前に父がそれ以前神主を務めていた祖母から受け継ぎ神主になったのですが、考えるところあって、昨年8月、自分も神職の免許を取得し、父の傍らで祭事の手伝いをすることになったのです。父がまだ健在で自分は日々忙しいはずなのに、なぜ神職の資格をとるつもりになったのか…それは3つの理由がありました。
 一つは昨年40となり、人生の(約)折り返しを迎え、残り半分の人生をプランニングしようとした時に、この資格が必要であると感じたからです。定年を迎えた時に新たに加わる自分の役割、いわば第2に人生ともいうべき新たな道への下準備を、体の動く今のうちにしようと考えたのです。実際、昨年夏休みの約1ヶ月、國學院大學で資格取得のための修行を行ったのですが、体力的にかなり辛いものでした。老人となってからでは、かなりきつい修行なのです。
 2つ目の理由は、一昨年3月の東日本大震災により、自分の愛してやまない美しい故郷、宮城の地が地震津波、そして原発放射能事故により大きな被害を受けたことです。その惨状を見るにつけ、微力でも自分にできることがないだろうか、と真剣に考えました。そして、第2の人生では神職として、社家としての自分の役割をまっとうし、土地の安寧を祈願していくことが、自分に課せられた使命である、と感じたのです。
 3つ目は、神道の「神」についての考え方が、自分の宗教観、倫理観、価値観に合っていることに気がつき始めたことです。神道の考え方では、神は土地のあらゆる場所に存在しており、いわば自然そのものが「神」であり、偶像は存在しません。(近代に入り、神道国家神道として軍部に利用され、敗戦後はGHQの指導により悪いイメージが植え付けられてしまいましたが、元々神道とは、日本人の道徳観や美的感覚そのものというべきものであったのです。)普通に生える木1本にも、虫けらにも、そしてトイレにまでも神様が存在し、そのすべてが我々の生活を見守っている…だからそれらすべてを大切に扱わなければならない…物事の価値観が多様化する現代の国際社会において、日本人が持つこの道徳観、価値観は、世界に誇れる美的意識であり、大切にしていかなければならない、と感じたのです。
 …と、大げさなことを言っているのですが、まだまだ修行を明けたばかりで、神職になったとはいっても、お祭りの時だけ手伝うだけのビギナー神主です…。これから少しずつ少しずつ、神社からの学びを、本業の実践にも活かしていきたいと考えています。
 
住吉神社(よろしければ、Facebookも訪ねてみてください…全然更新していませんが…。)

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