学校でなぜ音楽が必要なのか
「学校でなぜ音楽が必要なのですか?」
誰かにこう質問されたら、どう答えたらよいでしょうか。
音楽を学校教育で教える理由…思えば自分も今まで明確な答えを持ってこなかったような気がします。絶対的な必要性を感じ、強い思いを抱きつつも、その理由をあえて言葉にして述べる機会を持ちませんでした。しかし最近、このことを強く意識するようになってきました。
教師として経験を積んでいくと、時代の要請による様々な教育改革により、教科の「軽重」を目の当たりにすることになります。
応用力が足りん、となれば総合的な学習の時間ができ…。
子どもが忙しいのが悪いんだ、となればゆとり教育により各教科の時間数が減り…。
国際的な成績が悪くなり、勉強が足りん、となれば主要教科の時間が増え…。
私は、この十数年の間、こうした流れの中である意味“翻弄”される現場に身をおいてきました。「教科」というものがいかに社会の風潮の影響を受けやすいものであるかを肌で感じてきたのです。そして、「音楽」という教科が、社会の風潮に耐え、これからいつまでも学校で教える教科として存在し続けるためには、現場の教師が、音楽という教科の必要性をしっかり認識し、論理的に主張できなければならない。…そう強く感じるようになってきたのです。
そんな中、雑誌「教育音楽小学版」の4月号のある記事が目に止まりました。
学生時代に音楽教育学でお世話になった坪能由紀子先生と、東京芸大名誉教授の山本文茂先生が「音楽教育の未来への提言」というタイトルで対談されていたのですが、山本先生が話されていた、「教育的な価値としての音楽の特質」が、とても整理されていて、なるほどな!と思ったので、先生のお考えを、自分なりに咀嚼し書き記しておきたいと思います。
<教育的な価値としての音楽の特質=学校でなぜ音楽が必要なのか?>
①感動体験が「共有」できる教科である。
→感動することは人それぞれ違うが、複数の人が集まるとその感動体験が「共有」され、増幅される。
②知性と感性の融合した教科である。
→「頭」と「心」を使う学問としては、音楽が一番わかりやすい。
③意思と集中力を必要とする教科である。
→演奏しよう、という意思を持ったら、ある時間集中しなければならない。集中力を磨くのに適している。
④人間感情の純化に適した教科である。
→人間が本来持っている「美しいものを追い求める」という感情に応えるのにふさわしい学問である。
⑤現実認識の方法を学ぶ教科である。
→音楽は人と人とが現実を認識するために言葉以外で行うコミュニケーションツールである。
これらは、一生のうちで若いうちに集団の中にあってこそ大きな価値を見いだせるものです。その人のその後の人生にどれだけ大きな影響を与えるか計り知れません。
これこそが、多くの仲間が集う学校で「音楽」が教科として取り上げられる理由だと私も思いますが、他にもまだ理由があるのかもしれません。これからも音楽の教師を続ける限り、模索していきたいと思っています。